"なぜ覆水は盆に返らないのか?"
私たちは経験的に知っています。熱いコーヒーは冷め、掃除していない部屋はどんどん散らかり、割れたガラスのコップは勝手に元に戻りません。自然は常に秩序ある状態から無秩序な状態へと進みます。この無秩序さの尺度をエントロピー (Entropy)と呼び、「孤立系の総エントロピーは常に増加する」というのがまさに熱力学第二法則です。
ニュートンの運動法則やシュレーディンガー方程式など、ほとんどの物理法則は時間を逆に回しても成立します(時間対称性)。しかしエントロピーだけは唯一不可逆性を持ちます。エントロピーが増加する方向こそが未来であり、これが私たちが過去は記憶しているが未来は知ることができない理由、すなわち「時間の矢」を定義します。
オーストリアの物理学者ルートヴィッヒ・ボルツマンは、エントロピーを統計的な確率として説明しました。整頓された状態よりも散らかった状態の場合の数が圧倒的に多いため、自然は確率が高い方(無秩序)へと動くだけなのです。彼の墓石には、彼が発見した不滅の公式 S = k log W が刻まれています。
この法則を宇宙全体に適用すると、暗鬱な結論に達します。いつか宇宙のすべてのエネルギーが均一に広がりエントロピーが極大化すると、もはや星も生まれず、いかなる物理的変化も起こらない冷たい死、すなわち熱的死 (Heat Death)を迎えることになるでしょう。生命体はエネルギーを摂取して一時的にエントロピーを下げる、宇宙の流れに逆らう奇跡的な秩序の島なのです。